馴れと妥協癖の末路

「人がごみのようだ!!」 

このセリフは、有名なおっさんが言った、最高のセリフである。 

そして、 この一文は、私の愛用している、とあるライトノベルの登場人物のセリフとしても登場した。 


そいつは、成績優秀で人付き合いも悪くはなかったが、 つい一つの正義感でとある不良と絡んでしまう。 


ただ単に、 「こんなところで遊んでいないで家に帰れ・・・」と、少し正義感を出して、そいつに話しかけただけだったのだが、思うようにいかなかったようだ。 


その後いろいろあったのだが、結果的にそいつはその不良を殺してしまう。 


以来、そいつは、ム○カのように人を見下すようになる。(心の中で) 



問題なのは、そいつが、 

「ぼくは君たちのような下賤な生き物は死すべきだと思っている」 と言ったこと。 


そいつ自身の心理状況はしっかり描かれているのだが、どう見ても殺人を犯してしまってから、考え方が変わっている。 

ただ、そいつ自身は、「自分はもともとそうだった。そういう考えを持っていたからこそ、《殺した》」のだと言う。 


結局、主人公に、不良を殺してしまったことで、殺人を正当化せざるを得ないことになってしまったのだと指摘されて、元の善良な心を取り戻し、物語は終わる。 


この先品のテーマは、”概念”というものが、どれだけ人を縛り付けることができるのかということ。 作中では、それを魔法と読んだりしているが、この小説では、その魔法にかかってしまったものは、殺人だって簡単に行うことができる。 




洗脳・・・ 


悪い言葉だ・・・ 


しかし・・・ 


全く必要ないものなのだろうか? 




私は、休みは必要だ。 

ゲーム、動画、TV、旅行、折り紙 、娯楽がないとやってられない。 


でも、月に、残業100時間超える人もいるし、 休日出勤する人も多いはずだ。 


農家の人は、朝早く起きて、休みがない。おまけに、遠出ができない。 ラーメン屋は、休日は必ず仕事。仕込みに一日中かかるから、ほぼ一日中ラーメンのことにつきっきり。 


とても、娯楽なんかに時間は使えない。 


でも、そういう人が頑張ってくれているおかげで、私達は、休日休むことができる。 

「仕事がつらい?それは自分に甘えてるんだよ!!」 


とか、某知恵袋でよく見かける回答ですが、私は、その人はその考え方でいいと思っています。 


私は休みたいので、その考えにはついていけません。 これで十分です。 


要は、自分の考えが、いちばん近いのはどこかということ。 


私には、農家の人の気持ちがわかりません。何が楽しいのかわかりません。 でも、農家の人がいなくなったら、食べ物がなくなります。 


だから、農家の人は考え方を変える必要はなくて、私が農家の人の考え方につきあう理由もありません。当然です、私は農民じゃないのですから。 


もしここで、農家の人が、週休二日制になったら、一般人の生活はどうでしょう・・ 



ん? 



よくわからなくなってきました? 


つまりは、その場所には、その場所の考え方があるということです。だから考え方を変えてはいけないのです。 


もし、考え方を、変えたいのであれば、そこから出ることです。

 

今の生活を続けていても、絶対に考え方は変えられません。 


ラーメン屋にはラーメン屋の生活。 


農家には農家の生活。 


ビジネスマンにはビジネスマンの生活。 


日本人全員が、農民になってはいけないし、ビジネスマンになってもいけない。だから、考え方が、人それぞれなのは当然なことなのです。 どれかがゼロになってはいけない。絶対に、そこで働く人は必要なのですから・・・ 


だからこそ、みんなが、 ”耐えろ"と、言うのかもしれませんね。 


ただ、厄介なのは、 


今の世界情勢では、トンビはタカになれませんが、 


トンビでもタカのような生活ができるようになってしまっていることです。 



たとえば・・・・ 


中国人やチョンが、日本人並みの生活したら、どうなるでしょうか? 


100円ショップは? 


ファーストフードの値段は? 




・・・・・・・・ 





結論を言います。 









在日(中・韓)帰れよ・・・ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

にゃー





意見、暴言、悩み。なんでも受け付けます。

メモ: * は入力必須項目です